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JACCの設立について

 アドベンチャー・サイクリングの助言と指導は、昭和49年(74年)7月に開設された関西サイクルスポーツセンター(面積20万㎡)が、池本元光(68年8月~72年12月、世界47カ国4万1840㎞走破)の職務によって日本で初めて本格的なサービス・ステーションとして、小規模ながら活発なはたらきかけを行ってきた。
 そしてその後、サイクリスト・梶政雄(欧州2万㎞走破、当時世界一周中、東京農工大OB、東京出身)と池本が、吉野安雄氏(当時財団法人自転車センター専務理事・関西サイクルスポーツセンター所長)、馬越善通氏(当時財団法人日本サイクリング協会副会長)、松井喜三氏(当時財団法人日本ユースホステル協会常任理事)らの指導のも
と、昭和54年(79年)4月1日に、日本アドベンチャー・サイクリストクラブを設立、関西サイクルスポーツセンター(大阪府河内長野市)を本拠地に活動を始めた。
 そして、人間の願望である“旅”を、自転車を足にした地球体験で、人生の一コマを飾った仲間とその理解者によって、“地球体験で国際交流を深めよう”と活動が活発化したのである。

 上記の様に、本会は1979年(昭和54年)4月1日、(財)自転車センター・吉野安雄専務理事らの支援のもと東西2名の地球体験サイクリストで発足し、本部・事務局を関西サイクルスポーツセンター内に置き活動開始。

1980年~


81年夏、世界一周途上のペダリアン2名をトルコとカナダで不慮の交通事故で亡くし、情報徹底を目指し会員制度を導入。

82年10月10日、会員100名突破、情報紙「ペダリアン」(季刊)を記念創刊。

83年6月、「ペダリアン」の商標登録を5件出願。

84年1月、日本自転車普及協会・自転車文化センター主催「サイクルアドベンチャー展」協力。
84年1月、池本元光代表、帆かけ自転車を考案。サハラ砂漠縦断に風ロマンを賭けたが、池本退職勧告を受け断念。
舟津圭三を隊長とする4名のJACC遠征隊(1/18~4/13)。
4月、大阪・国際見本市‘84サイクルショー「サハラ縦断セーリングサイクル」出展。NHK朝のニュースで紹介。
4月、創設者で関西サイクルスポーツセンター職員池本代表は同センターの指導により事務局長に。
11月16日、竹沢荘一顧問、万里の長城走行一番乗りを果たす。

86年1月、関西サイクルスポーツセンター主催「10大ペダリアン展」協力。

87年12月26日、名誉会長に佐橋滋氏(財団法人余暇開発センター理事長、元通産省事務次官)を迎える。

88年1月、「ペダリアン」商標再審判1件取得。
4月、竹沢顧問が第2代代表に。
10月、活動母体「日本国際自転車交流協会」設立へ向けて始動。JACC発足10周年を記念し、国際友好大賞「地球体験ペダリアン大賞」(原則として5年ごと)を制定。

89年(平成元年)、国際友好大賞「地球体験ペダリアン大賞」第1回受賞者に台湾の胡栄華さんを決定。写真を見る
3月12~19日、鍛冶忠雄(自転車センター理事長)総監督以下41名の国際友好親善自転車活動訪華団を結成し、贈呈式兼台湾一周サイクリングを挙行。多大な友好の成果を収めた。写真を見る
89年7月27日~90年3月3日、南極大陸犬ぞり横断国際隊6カ国6人に舟津圭三が日本を代表して犬ぞり担当で参加、6040キロを踏破。史上初の快挙を遂げる。
89年~97年、東京・自転車文化センターで毎夏地球体験講演会(梶政雄、春日光明、河野兵市、松葉京三、中村忍、埜口保男、井上洋平、96年は女性フォーラム)を開催。
3月4日、TBS「報道特集」で南極と日本のJACCが衛星中継される。
89年9月19日、馬越善通JACC顧問(71歳、財団法人日本サイクリング協会副会長)死去。

1990年~


90年3月16日、河野兵市が地平線会議の89年「地平線賞」を受賞。
3月、JACC本部を東京、竹沢荘一氏(当時代表)・国際特許事務所内に移す。
夏、中華民国自由車協会劉金標理事長招請を受け、第4回台湾一周活動に竹沢荘一氏・池本元光(当時事務局長(出発式に参加)、手島渓三氏(当時評議員)、朝倉厚、大原剛らが参加(7/28~8/11)。13歳~70歳までの男女128名が1200キロを走破。
11月、台湾の胡栄華名誉会員が史上初の中国大陸縦横断14056キロを走破(89/10~90/11)。

91年1月、舟津圭三が「朝日スポーツ賞」「テレビ朝日ビッグスポーツ賞特別賞」受賞。
4月、「JTBハローいい旅」のテーマソング「もっと遠くに」(作詞・作曲・歌、伊藤秀志)が同番組DJで作者の伊藤秀志さんからJACCイメージソングとして寄贈される。写真を見る
夏、中華民国自由車協会第5回台湾一周活動84名が1286キロ走破。JACCから7名が親善交流!

92年夏、中学3年・松島章、世界最大級の56インチ一輪車で米横断(サポートに舟津圭三、河野兵市を特別派遣)、ギネス世界記録に認定。
12月、メキシコ北部で世界一周途上3件目の交通死亡事故の悲劇が発生。

93年3月28日、第2回「地球体験ペダリアン大賞」に92年夏、小学6年で日本縦断を遂げた北海道の中務顕貴君を選び、東京・科学技術館で開催の「アドベンチャー・サイクリングフェア」(JACC主管)会場で贈呈式を挙行。写真を見る
5月31日、佐橋滋名誉会長(余暇開発センター最高顧問)死去(80歳)。
7月14日、池本元光(当時JACC事務局長)、玉井義臣理事の紹介で細川護熙さん(のちに首相)と友好を交わす。写真を見る

94年7月、米国モンタナで世界一周途上4件目の交通死亡事故の悲劇が発生。
8月、JACC活動母体「日本国際自転車交流協会」設立に向けて6年越しに発起人会発足。

95年1月20日、阪神・淡路大震災(1/17)の救援金10万円を朝日新聞厚生文化事業団を通じて寄贈。

4月19日、「第2の植村直己」河野兵市、北磁極へ単独無補給600キロ踏破。
4月30日、畑中正一(当時相談役、関西サイクルスポーツセンター所長)急逝(63歳)。
5月1日、「日本国際自転車交流協会」を7年越しに設立(「ペダリアン」7/1発行第52号で発表)。
5月、東大時代、米横断の横山典弘、米コネチカット州イエール大学2年留学を終え、通産省車両課課長補佐(自転車業界担当窓口)に就任。
7月10日、東京で日本自転車普及協会・源城常恒人専務理事、日本自転車振興会・藤原登理事、太田新生元リビア大使、矢野成典元三井物産ロサンゼルス支店長、朝日新聞・遠藤靖夫運動部長、通産省・横山車両課課長補佐、鍛冶相談役、竹沢代表、池本事務局長による初の自転車国際交流懇談会開催。

96年5月、竹沢荘一氏(当時代表)、南太平洋・トンガ国王の招待を受け、代表ほか4名が親善訪問。ツポウ四世国王に拝謁。王室へMTB5台を献上するなど民間外交を展開(5/23~30)。トンガ訪問は、朝日新聞に紹介され、共同通信社配信によって全国各紙に大々的にカラー掲載されるなど自転車交流の成果をマスコミで発表。写真を見る
7月18日来日、72歳の韓国サイクリスト張永憲さんの日韓一周友好サイクリングを支援招請。
7月19日~8月3日、中華民国自由車協会第10回記念台湾一周サイクリング活動に竹沢荘一氏ほか21名が友好参加。
夏、中華民国自由車協会第10回記念台湾一周活動200名が1095キロ走破(7/19~8/3)。JACCから竹沢荘一氏、松坂佳彦氏(当時副代表)、ベテラン朝倉厚ら22名が親善交流!

97年計画、ボルネオ島キナバル山(4101m)サイクルトレッキング実施に向け、朝倉厚とサンTVが現地調査行(8/14~23)。
5月3日、河野兵市、日本人初の北極点780キロ単独徒歩到達の快挙を遂げる。北極点に河野が、89年12月12日には舟津圭三が南極点に。両極点にJACC旗を掲げたすごい仲間のいる、すごいJACCだ!写真を見る
年内、茂木圭太氏(当時評議員)によってJACCホームページ「ネットペダリアン」発信始まる。

98年1月8日、河野兵市、第46回愛媛新聞賞・瀬戸町名誉町民章受賞。北極点到達・河野兵市と19人の自転車地球体験展(9/13~10/19)を関西サイクルスポーツセンターで開催。
1月23日、河野兵市は、北極点遠征で100万円の支援を受けた大阪・堺市のエクセル㈱の深江今朝夫社長を紹介者の池崎宗男賛助会員、池本事務局長と訪問。感謝と遠征報告を伝える。
5月、待井剛、日本人最多国記録世界117カ国走破し帰国(92/4/1~98/5/12)。
6月13日、パリ郊外で夫婦世界一周の瓢子敏樹(34歳)、5人目の交通犠牲者に。
関西サイクルスポーツセンターで待井剛の「夢と感動の世界」と仲間たちの大冒険展開催(10/1~11/3)。
夏、台湾一周「踏板上勇者活動」(7/12~7/26)に世界走破の待井、松坂佳彦氏(当時副代表)ほか6名が参加。
10月11日、同会場で待井へ第3回「地球体験ペダリアン大賞」の贈呈式を挙行。写真を見る
10月15日、JACC20周年に向けJACC交流協会会長に太田新生理事が就任。

99年4月1日、JACC創設20周年を迎える。通算585人が門をたたく。
9月7日、20周年記念事業費50万円をトルコ大地震(8/17)義援金として、太田新生氏(当時会長)、竹沢荘一氏(当時代表)、瀬戸圭祐氏(当時副代表)が駐日トルコ大使を訪ね、手渡す。写真を見る
9月18日、20周年の活動を朝日新聞が大きくカラーで掲載。
12月、竹沢荘一氏ほか7名が99年4月、脳梗塞で倒れ、驚異的に快復した郭名誉会員の見舞いと台湾大地震(9/21)の義援金30万円を携え訪台(12/10~12)。第2陣として池本元光代表(当時事務局長)、河野評議員が訪台(00/1/17~20)。

2000年~


00年夏、郭金仁名誉会員率いる台湾“踏板上的勇者”台南成功踏板倶楽部蘇会長ら12名来日。JACCと北海道を友好サイクリング。
10月31日、著名なイラストレーター真鍋博理事(68歳)逝去。

01年1月4日、21世紀最初の一大事に直面。89年12月から日豪ペアで世界一周中の阪口エミコ、77カ国目10万8618キロ走破のパキスタン首都イスラマバードで子宮ガンの宣告を受け、緊急帰国。東京・大阪のペダリアンによる絶大な支援態勢によって1月9日、大阪・関西医科大付属香里病院に入院(4/26、摘出手術。7/12、退院。再開に向け闘病中)。JACCが一丸となったエミコ救援活動!写真を見る
2月28日、河野兵市評議員、北極点から故郷愛媛への1万5000キロ人力行の旅「リーチングホーム」に向け離日。
3月26日、北極点をスタート。氷原689キロを踏破し、陸地へ84キロ地点の5月17日、不運にも進み行く足元でプレッシャーリッジ(海流の衝突によって突然、氷が火山の爆発のように隆起する現象)に遭遇。
5月24日、北極海に眠る河野(43歳)発見! 7月1日、松山市での「お別れの会」に台湾の盟友・胡栄華名誉会員夫妻、郭金仁名誉会員が来日。佐田岬半島に建つ「河野兵市リーチングホーム記念碑」に竹沢荘一氏(当時代表)、武澤勇相談役(当時近畿地区支部長)らと訪ねた。
4月16日、歌手の河島英五JACC協会理事(48歳)逝去。
12月、松坂佳彦氏(当時副代表)、池本元光代表(当時事務局長)、「河野兵市『リーチングホーム』報告書」を携え、訪台(12/10~14)。

02年1月20日、エミコ・シール、『ガンを越え、めざせ地平線!!』(砦鹿社)を出版。
9月、埜口保男氏(当時評議員)、『みかん畑に帰りたかった』で第9回小学館ノンフィクション大賞を受賞、賞金1千万円獲得。写真を見る

04年6月5日、厳冬季シベリア単独横断(02/9~03/5、1万4927キロ走破)の安東浩正(当時評議員)、「第8回植村直己冒険賞」を受賞。賞金100万円獲得。写真を見る
12月、故・河野兵市評議員の遺志継承のためNPO法人「河野兵市心と夢クラブ」を順子夫人が設立。写真を見る

05年夏、アフリカ単独縦断5000キロ(04/8~05/1)を遂げた大阪外大生・山崎美緒(22歳)を、第19回台湾一周活動(台湾教師連盟主催)にJACC友好ペダリアンとして派遣(6/30~7/16)。

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